『泥水もそのままにしておけば澄んでくる』
と言います。
禅の精神にも通じるもので、それを否定するつもりは全くありませんが、人生の中ではそれはあくまで1つのツールであって、目的や真の喜びにはならないと思うのです。

人と出会ったり、別れたり、また傷付けたり傷つけられたり、というのが、人生ではたくさん起こります。
思い通りにならないのが苦しみの根元と考えることもできますが、思い通りにならないことを、人と協力し合って解決する喜びにまさるものはありません。
しかし当然、そこには苦しみが生まれます。
頑張れば頑張るほど、心は揺れ動いて、自分の心の中にある泥に気付かされます。東洋的な思想文化を持って生きていると、その事実にまた、苦しむかもしれません。
しかし、本当はそれこそが、大切なのでは無いでしょうか?
掃除をすれば、埃が立ちます。
じっとしていれば、埃は立ちませんが、埃はどんどん増えていきます。
誰かの笑顔や幸せのために頑張って動くとき、それはちょうど掃除をしているのと同じように、心の中に埃が立ちますが、その総量はどんどんと減っていきます。
そんな毎日が辛いとき、禅や祈りの時間を確保して、一旦心を落ち着けることは有益ですが、それが目的になっては、いつまでも心が洗われること、泥やほこりに例えられる心の根源的な苦しみの総量が減少することはありません。
心が強く揺り動かされる苦しみの中にこそ、自分自身の心が洗われる、心の大掃除が始まります。
心を洗う努力は、自分のための苦しみではなく、人の幸せや喜びのために心を使うことから始まり、心を強く揺さぶられる苦しみの中にこそ、本当の助かりがあるはずです。













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